ひっそりとSixTONESについて綴りたいブログ

SixTONES、なかでも髙地くんが好きです✨

『夜明けのすべて』感想


北斗くん目当てで、小説を購入し映画を見に行った「夜明けのすべて」
素敵な作品だったので、感想を残しておきたいなと思いブログを書くことにしました。
ネタバレ含みますので、嫌な方は恐れ入りますが回れ右をお願いします。

 

Amazon説明より

人生は思っていたよりも厳しい。でも、救いとなる光だってそこら中にある。
ささやかだけれど特別な、生きるのが少し楽になる、全く新しい物語。

映画「夜明けのすべて」
2024年2月公開!

W主演:松村北斗 上白石萌音
監督:三宅唱

PMS(月経前症候群)で感情を抑えられない美紗。パニック障害になり生きがいも気力も失った山添。
友達でも恋人でもないけれど、互いの事情と孤独を知り同志のような気持ちが芽生えた二人は、自分にできることは少なくとも、相手のことは助けられるかもしれないと思うようになり、少しずつ希望を見出していくーー。
人生は苦しいけれど、救いだってある。
そんな二人の奮闘を、温かく、リアルに、ときにユーモラスに描き出し、誰もが抱える暗闇に一筋の光を照らすような心温まる物語。


人生は想像より厳しくて、暗闇はそこら中に転がっていて、するりと舞い込んできたりします。でも、夜明けの向こうにある光を引っ張ってきてくれるものも、そこら中にきっとあるはずだと思いたいです。
いつも本が完成して思うことは、「楽しく読んでもらえることが一番だ」です。その思いは今回も変わりませんが、『夜明けのすべて』を読んでくださった方が、ほっとできる一瞬を味わってくださるのなら、明日を待ち遠しいと思っていただけるなら、幸いです。
瀬尾まいこ

 

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この物語は、パニック障害PMSといった気づかれにくい病気を抱えた男女の物語です。

実は、私も普通に生活することもできるけど、面倒な病気・突発難聴を患ってます。
左耳が、常に絶えることなく、耳鳴りがしています。
(右耳はたまに。

音の大・小はその日によって違いますが、音が途切れることはありません)


私の病気の発症は、コロナ禍初期の2020年2月でした。
ちょうどその時、職場は変わらないものの勤務地が変わり上司も変わって、更に世間もコロナという未知なる流行病が流行ってしまうかもしれないと、緊迫感が漂っていたときでした。


コロナ前までの私は、そこまで人付き合いは得意ではなく交友関係は狭いものの、楽しい時間を共有できる友達はいて。
自分の好きなことは長時間打ち込めるタイプだったので、金融系の資格(FPや簿記)や、心理学の勉強、好きな小説を読んだり書いたり…、ポケモンのとあるソフトではプレイ時間カンストしたり、FEのゲームは1周72時間するであろうゲームを7週以上したり。
喘息やいくつかのアレルギー持ちで、HSPっぽい症状を抱えながらも自分が好きなように過ごしてまして、そんな生活が普通で当たり前だと思っていました。


 それが、ある日、本当になんでもない日を堺にすべてガラリと変わりました。
それまでの自分の見ていた世界が病気が元で大きく姿を変えてしまった。
大げさでしょと言われるかもしれないけれど、私の中では本当に、世界が大きく変わってしまう出来事だったんです。


最初に気づいた時は、鳴り止まず耳元でなり続ける音に、電子機器が壊れたのかも?と、自身の病気の可能性を疑う前に、電子機器を探し回り、部屋中の電気製品の電源を抜きました。

それでも消えなかったので、リラックスの為に、ハーブティーを何杯も飲んでみたり。脳の病気かと焦ってみたり。


私はめんどくさがりやで大雑把な面がありますが、前記にもかいた通り、若干HSPでは?と思うくらい、一部些細なところも気になってしまうタイプで、たとえばアナログの時計の秒針音のカチカチという音すらも気になって眠れなくタイプです。
なので四六時中続く耳鳴りというのは、拷問に近いものでした。

夜に眠れないのに、眠れない。静かなときが一瞬もない。
私の世界に、静寂は訪れない。
得体のしれない他人には聞こえない音が、常に私の耳を支配している。


正直、私はまだ若いと自分で思っています。
結構、大人に思えるかもしれませんが(そんなことはないか)、自然と加齢で耳が遠くなる年代ではありませんし、日本人の平均寿命を考えれば先のほうが長い年齢です。一般的な突発性難聴が出るだろう年代よりまだ、若干若いです。


なのに、このまま、一生この状態が続くのか。

一生、この頭のおかしくなりそうな音と、私は、付き合わなければいけないのか。
静かな部屋で一人ゆっくり珈琲を飲む。
そんななんでもなかったことも、一生私にはできないことになってしまったのか。
考えれば、考えるほど、自分がおかしくなってしまいそうでした。

 

難聴と言っても、耳鳴りがするだけで、音を拾うことができる。
でも、これが病気の入り口でより悪くなってしまったら。
もっと今後体力がなくなって、仕事などまともにできるのか。
浮かんでは消えていく思考は、発症してしばらくはとても前向きなものは浮かびませんでした。

突発性難聴だと診断されてからも、脳の病気かもしれないと2回検査もし、整体などにも通いました。


 耳鳴りがし始めた1ヶ月は、寝るという行為ではなく疲れて気絶して睡眠を取っていた気がします。
だから、あの時の自分は睡眠時間が数時間で、ときには眠れず徹夜のときもあり、とても攻撃的になっていたり、今考えると怖いなぁと思うくらい情緒不安定で一人夜におかしなタイミングで涙が出てしまうこともありました。
未熟だなと思っても、あの頃はとにかくいっぱいいっぱいだったのです。(コロナ禍で、毎日憂鬱なニュースもありましたしね)


早く元の自分に戻したい。
こんな不便は嫌だ、と。
こんなのは自分ではないと。

 

突発性難聴の1番の原因は、“ストレス”だと言われています。
でも、その時考えられるストレスというものが、本当になにもなくて。
突発性難聴になっていることが、ストレスなので根本的解決方法がわからず。
原因となる“なにか”を考えて、盲目的に囚われたり、絶対に治るわけ無いのに藁にも縋る思いで治るらしい薬を飲みまくったこともありました。効く効果あるか怪しすぎる商品も頼んだこともあります。

 


 耳鳴りのせいで、好きだった本を読んでも、ずっと集中し続けることが難しくなり。
当然、何かを考えて“書く”という行為も、耳鳴りが集中力を散らして書きづらくなり。
長時間新幹線に乗っていると、耳鳴りが酷くなり頭痛もするし吐き気もある。

人の話し声が聞き取りづらく、時には耳鳴りでかき消される場合もある。


蝉の鳴き声が、判別できない。

蝉が鳴いているのか私の耳鳴りなのか、この音は私しか聞こえない音なのか。

 

みんなに聞こえない音が聞こえる私は『異常』なのか。

 

私の中にあった、当たり前がガラガラと崩れ去っていきました。
今まで当たり前に出来ていたことができなくなってしまう。
暗いナニカに飲み込まれていくような…、小説の言葉を借りるなら突然私の中に、夜の暗闇に落ちてしまったような、目の前が真っ暗になった瞬間でした。


 病気になってから、“耳”に関することも沢山ネットで調べました。
私は正直、堂本剛くんが突発性難聴になったとニュースで聞いたときは、突発性難聴の理解が深くなく、「大変そう…、音を使っている人だから爆音とかで耳がやられてしまったのかな」とかあくまで、仕事柄の病気だと考えており、今まで耳の病気もなかった、なんなら人の話をよく盗み聞きしていたくらい耳が良かった自分が、耳の病気になってしまうなんて思ってもいませんでした。


病気で、今までのようにできない自分じゃないくらい苛立って、悲しんで、無気力になっていく。
自分でも制御できない、知らない自分になってしまう。

やるべきことも、やれないと諦めてしまう。
そんな未来は、これっぽっちも私の将来思い描いていた設計図にないことでした。

 


 病気を比べてはいけない。他人には他人のわからない部分がある。
夜明けのすべての場面に、全然病気違いますよね?という台詞があり、凄く印象に残っています。
というのも、私も病気になって精神が参っている時、何かと自分の病気と人の事柄を比較していたことがあります。

 

例えば、騒音問題で子供の声にストレスを抱えている人の声を聞いて。
そのストレスを抱えている人にとっては、誰かに愚痴を聞いて少しでも気持ちを楽にしたい、其の人にとっては大きな問題であるでしょうに、「でも、それって私のように永遠には続かないでしょ?夜は眠れているんでしょう。引っ越せば良いのでは」とか。

 

人間関係拗れてどうしようか悩んでいる人に対しても、

「でも、それって自分が環境を変えようと思えば、人間関係なんて簡単に切れるし、人間なんてすぐに忘れていく生き物だし。

ずっと続かないし、逃げ場はどこにでもあるのにどうして永遠に続くと思うの、寝ることもできるならそれでいいじゃない。寝れるだけ幸せなのに、なんでその幸せがわからないのかな」なんて思ったりとか。

 

私の突発性難聴だって、耳が全く聞こえない人から見たら、ちゃんと会話もできるし音も聞こえるし、蝉のような音なんて気にしなければいいだけ、痛みもないし突然襲われる病気でもないからとても軽すぎる病気かもしれない。

もしかしたら、幸せそうに見える部分だって沢山あるのかもしれない。

 

それこそ、常に音楽がなり続けている状態だと思えば良い、コンビニが近くにあり四六時中たむろってワイワイ騒いでいる若者がいると何ら変わらないのと同じである、と。

その人にとって、その悩みがどれだけ重いか辛いか、逃げ出したいかなんて、その人にしかわからない。
そんな簡単な考えさえ浮かぶことなく、誰かと比べてしまうことで、そこで安堵したり苛ついたりしてしまうこともありました。

 

 私は、突発性難聴であることは今の会社には言っていません。(昔の会社は、長かったので気軽に言える環境ではありましたが)

 

今のままであれば言う必要もないかもとも思っています。

耳鳴りで挨拶が聞こえずもしかしたら、スルーしているかもしれないし、聞き返すこともややあって、迷惑かけているかもですがやっぱり気づかれないなら普通に接してほしい部分が大きくて。

病気であること、受け入れなくてはいけないけどあまりこういうプライバシーなことを他人に言いふらしたくない部分は本当に、人によってそれぞれあると思います。

『誰かの負担を和らげるのは、強引に髪を切ったり勝手に告白することなんかじゃない。靴に炭を忍ばせる。そういうことが苦しさを軽減させてくれるのかもしれない』

 

小説にこんな台詞がありますが、まさに私もそう思っていて、「病気だからみんなに知らせるべき」と広め、誰かに優しさを強要するように言うことよりも、ただ聞き返したら、同じ言葉をめんどくさがることなく口にしてくれる、普通にしてくれるけど気にかけてくれる。そんな態度のほうが気が楽で、ありがたいなと感じる人間です。

本当の多様性というのは、ある意味で、他人の考えに染まりすぎず、自分をしっかりと持つということかも。

 

 

 あまりに自分のことを書くと、毎度のごとく脱線し、今回の「夜明けのすべて」の感想とずれてしまうので、映画と小説の話に戻します。

 

今回、映画と小説は若干の違いがありました。
軸となるテーマ、他人を思いやる・誰かのことを少し思うことで、誰かの助けとなれることができる。
とても小さな優しさで、ともすれば見落としてしまいそうな、口に出すほど大きなことはしていないけれど、確かにそれは優しさとして、ぬくもりがあり見えないけれど存在するもの。


ただ見守ること、気にかけてあげること、そう思ってくれるだけでじんわりとした優しさを感じ、少しだけ面倒だった生活の居心地が良くなることもありえる。

そこはどちらも軸で、大切に描かれていました。


個人的に感じた相違点は、小説は病気となって自分が変わってしまったことへの変化と成長部分の場面の魅せ方。


病気になり今までの自分でいられない。
時にできない自分に腹立ち、できない自分の存在価値を考え嫌になり、他人に迷惑をかけてしまう自分を価値のないものと考えることもあるかもしれない。

それが永遠に続き、目の前が真っ暗になり自分が嫌になり他者に攻撃的になる。


けれど、そんな自分でも誰かの助けとなれたり、苦しさを取り除くことはできる。
第一印象最悪な人でも、恋愛感情なく見返りもなく、相手を思い気にかける、情を持ち助け合うことはできる。

変わってしまったことで、できなくなったことが多い。

神様に願っても、劇的なドラマのような奇跡は起きないし、日常は変わらない。

それでも人はそれを受け入れて前に進むことはできる強さを持っている。
欠点が多い、自分にはなんの価値がないと思っても、影で幸せであってほしいと望まれる存在であったり、他人には必要とされる存在にもなれたり。
小説は、そんな自身の成長部分が盛り込まれていたなぁと感じました。

 

 


 映画は、原作になかった「死」や人との繋がり、老いの部分を重点にストーリーを積み重ね淡い色で彩られ作られたのかなと。

(夕日や風などの視覚効果で、日常を表現していた演出はとても綺麗でしたv上白石萌音ちゃんと北斗くんの演技が本当にリアルで、どこかにある日常を切り取った映画のよう)

 

あとは「星」を使った表現技法が特に印象的でした。今、私達が見えている星の光は、地球に届く時いくつかはもう既にこの世に存在しないものであります。
だけれど、もうこの世にはない存在(星)なのに、その星は暗闇で迷っている人の道標になって輝いている。


星は暗い夜空を明るく照らし、綺麗だなと人が夜空を見上げるキッカケとなっている。
その星に、彼の人を重ね、見守ってくれていると変わらない光景に対し心の拠り所にする人だっている。

 

夜空に浮かび上がる星星は常に当たり前のようにそこに存在しうるものだけれど、本当はもう存在しないもので次の星に生まれ変わっていたり少しずつ動いていたり。

一見、変化がないようなものも移り変わっているものがある。

 


 栗田社長と山添くんの上司・渋川さんも、大切な家族がなくなった遺族側として、残された立場としての在り方が物語を膨らませているなあと。
(山添くんが今の仕事を続けると言って渋川さんが涙ぐんで、傍らにいた子供がハンカチを差し出すシーン。


初見では、山添くんが前を向いて成長したから泣いているのかなーっと思っていたんですが、パンフレットを読むと渋川さんは死んでしまった姉の相談に乗れず悩み悔いている人だと書いており、新たな発見もありました。
山添くんの相談に乗っていたのも、自戒の念や後悔で自分も相談に乗ることで、救われていた部分もあったのかなぁとか。


側にいた子供も実の子供ではなく、姉の子供であり血の繋がりはない設定が背景にあり。
これは、女男、老人子供誰であろうと、涙を流している人に対してハンカチを差し出し微笑むことはできるという、メッセージ性なのかなとか。

パンフレット書いてましたが、三宅監督は瀬尾さんの色々な小説を読んで自死によって、亡くなってしまう現実もしっかり描きたいと書かれていました。

栗田社長さんの弟さんのノートのエピソードも、死んだら何も残らないというわけではなく、思い出や優しさは残り続けるし、誰かを動かしその誰かもまた心を動かしていくのかな…と。

 

 初見で見落としていた部分はもう1つあって、藤沢さんと母親のシーン。
舞台挨拶で、上白石萌音ちゃんが冒頭の藤沢さんが雨がかからないようにしてあげるシーンをあげており。

確かに少し自分が濡れても相手も濡れないようにする場面って愛だなぁとか、手編みの手袋も時間を込めて作り上げた其の時間、その時間は見えないものだけれど相手を想う時間に愛を感じるなぁとか、気づくとじんわりとしたぬくもりが散りばめられていたり。

その助けて優しさを与えられる“母親”が、今度は自分が介護状態になり、今度は助けられる側になる比例も多分、人の病気を知ることはできないが自分に対し優しくしてくれたその人を自分も助けることもできるし、好きになることだってできるの例として添えられたのかなと感じました)

 


ある日、突然若いのに病気になってしまうことももちろんある。
それから、ある日、大事な人をなくしてしまうことも、ある日突然悲しみに苛まれる出来事が訪れてしまうこともある。


やんわりとした“老い”を痛感し、できなかったことや楽しめなくなる日がくることも、現実的に起こってしまう。

 

その変化は、自分では変えてしまいたくないと思っても、どうしようもできない抗えないものでもあるわけで。

 自分がどれだけ悲しくて自分の世界がじわじわと壊れて、動けなくなっても、世界は自分を置いてはくれない。
自分は前に進めないのに、世界は自分の心を置き去りにしてどんどん時が進んでしまう。
どうせなら、心だけでなく体も置き去りにしてほしいのに、世界は変わらず、すすんでしまう。

 

そんな時に、人は絶望し暗闇を見たり、時により暗い方へと進んでしまいそうになる。
誰かにとって、楽しいその1日は誰かにとってとても楽しい1日であったり。
光もあれば闇もある。光もあれば闇もあって。

 

言いたいことを言うべきだと言う人もいれば、絶対に秘密にしておきたいと思う人もいて。すべての人が同一に感じることもない。


だから、すべての人を救うことなんてできっこないし、その優しさが届かないことだってある。

ガラリと、できなかったことができるようにするヒーローなんていない。
うまくいかないことも多いし、蔑ろにされることもある。

だけれど、そんな中でも自分でも思いもよらない優しさに守られていたり、時に誰かの救いになったり。
優しさだけに包まれ傲慢になってしまうことも、優しさに気疲れし見返りを求めてしまう人だっている。

すべての人に完璧に寄り添うのは、他人のすべてを理解するのはとても難しく不可能なものである。
それでも、気づかない優しさに触れ、嬉しいなと思える心を持ち合わせていたり
負担にならない程度に、助け合うことができたのなら、辛いなぁと思う部分が少し楽になることもあるのではないか。

 

時に自分が好きになれない自分が現れる時もある。

それでも、夜明けを夢見る権利は誰にもある。


 誰かの優しさが、誰かに響いて、そうやって繋がっていく。
誰か一方が負担を背負いすぎることもなく、困ったら支えたり会話をし気にかけてあげたり。
無理やり変化を追い求めるよりも、その人のペースを大切にして、歩み寄って見守る。


そういう気持ちが広がると、少し世界は生きやすくなったりするのかもしれない。

誰かの夜が、いつしかあける日だってくるのかもしれない。

 


ーーー夜明けのすべてを読んで。